《陽光と地平―――アサヲマツ》
序
荷づくりは手早かった。 辞令から二月たった。ここしばらく大雑把な家具やらさまざまな微細なものをまとめていた。 けっこうな量だ。壮観たる。まことに。ヒトは、すくなくとも貸し部屋の独身男にかぎっても、2年と8ヶ月、いや、9ヶ月暮らしたらその2年と9ヶ月分の物がたまるようになっている。たいしたものだ。そこにたまった、たまっていた捨てないものをつめたダンボールの箱は六つか七つになった。その箱の中から・・・うん、窓から外の空をながめようとしたらその箱があったので見えない。どける。箱を積みなおす僕の背で猫が、煙草をくゆらせ僕に一本すすめてくれる。その雑多なものを、ダンボールを見あげる。吐く煙、吸う煙。・・・少し考えたが結局一本抜いてくわえてくゆらせて吸い込み、むせぶ。鼻にはいった。そうか、こっちで暮らすときに煙草をやめた。それにしてもめまいが、血液が、高まり、上物の―――。ねむりにつけない夜だと横臥しながらじっと天井をみている。そののっぺりとしてつややかな天井からこれまたのっぺりとした表面の冷蔵庫へ。壊れたキッチンタイマーがついている。音は鳴るけどとまらないんだ。それらを見て、帰る、こっちから帰るこの数日後の午後三時のことを考えるだけで、まどろんだ気分が体の芯にしみこんでいく。 なんとも見事に退屈でいてしかも有意義な眠れない夜の我。 Θ 本当にうれしかったのか。うん。うれしかったのだろう。はじめに、この田舎に訪れたのは、私のたっての希望だった。時差をひいても一週間しかいなかった。ただ、街の中心にある関係商社を頼って、地元の物産、その、小物だな、それを店先でみて、店主に聞いてみる。(たいてい鼻の丸くて赤い小太りの) よく昼寝るからだろうか。あまり夜に眠れなくなってから何日めかのこと。 電話が鳴った。 コイズミだった。 『もどったらどこいきますか?』 神経質に鼻をならしながら言っている。会社の経理だ。 『象がみたい。キリン。うなぎたべる。たべたいですか?香ばしいやつ。バーゲンでソファーをかって帰りにアイスクリームを買う。・・・金魚のエサ、切れてた。買わなきゃ、ホールトマトとキッチンタイマーをおんなじ・・・』 きっと彼女はそのとりとめのない言葉を一つ一つ積みあげながら切りたてのさっぱりした襟足をなでたりつまんだりひっぱったりしているのだ。 ――― 『テレビをね、かえたんです。大きいやつ。よく知らない。リモコンにボタンが26コもついててせつめいしょう取りにテレビまでいちいちいかなくっちゃいけないの。めんどうなの。猫飼いましたか?オス?メス?領収?エサ代?交際費?地域住人との交流?バカ・・・主任だ。きります』 うん。 『そう、コップ買いかえましたよ。会社においてあるほう。欠けてたの、割れて。あたしですけど』 切れた。いじらしいほどの電話の切りかた。 Θ ということで僕は部屋から離れる準備をはじめた。 2日間、夕暮れから夜中までは、こっちで買ったヤッピー雑誌、ペーパーバック、パンフレットの整理をしていた。全部捨てることにした。どうせあっちにいってこっちの古い記事を見てもこっちがあっちなので無駄だ。それから三日かけて念入りに風呂のカビをすり落とした。眠れずに引越しのことを考える。こういう場合彼女のことを考えながらコーヒーでも飲むところだが、こっちのインスタントコーヒーは自販機のものよりもひどいので、アパートの下の地元の安酒場に下りて何杯かウゾーをあける。ついでにいわしのオイル漬けの熱いのを食べて口の中を火傷した。その晩は水まわりの目地をパテでうめた。さっきの店ではなじみの客からの惜しまれる挨拶、あんなに手厚く、え?あんただれ?ありがとう、ありがとう。またもどってくるよ。うん。だからあんただれって。といういきさつでいい気分になって鼻歌を歌いながら(なぜかあっちのこぶしの利いた歌)地味な作業をすすめる。そしてきのう買っておいてくれたという湯飲みとやらを、空想する。しかし失われてしまった僕のかつての湯飲みにも思いを馳せ、あの、青くて、大きくて、両手でしっかりと持ちながらその中のぬくもりを皮膚で感じ、窓の外の建設中のでかい倉庫の骨組みを眺めていたものだ。タバコの煙を吹きだし、灰皿なんて無いからそのまま地べたに落とす。ジュータンに焦げ目がつくがそんなことどうでもいい。 昼過ぎ、あとはこまごまとしたものばかりだった。一角を片付けるたびに猫は物憂そうに別の角にワインのボトルとグラスをさげたままうつっていき、またそこで腰をすえると赤のワインをあおって飲み、またそちらの角に僕が両手を一杯にして寄せていくと、ちょっと仰ぎ見ながらまたよその角に移る。その繰り返し。鍋、デカイ鍋、ズンドウの鍋、コップ、皿、茶碗(茶碗?!)皿皿皿、こちらで買いつけた中途半端な小物たち。さよおなら。家具は、と思っていたら、1月前に隣に越してきた老婆がちらと玄関からのぞいていた。『ほらね。ワインでものんでもらおうかとおもったのよ。ほらね。いいワインなのよほんと。すんばらしいのよ。お邪魔じゃなければいいんだけど、せっかく用意したんだからのんでよねほんと。お祖父さんの孫の友だちがおくってきてくれたワインなんだけどね、ほんと、いい子よ。息子の友だちのアントンもワインをつくっていてそちらもすんばらしいんだけどこのワインもすんばらしくてとてもとてもしあわせなのよ、だからあなた・・・チュゴクのヒトでしょ、ぜひこのすんばらしいワインをあなた方でのんで郷のご家族につたえるといいわね。すんばらしかったって・・・』 ハイ・・・はい・・・ありがとう。ハイ・・・いえいえどうも・・・ありがとう。お体にきをつけなさって・・・え、ああ、アチョー。はい、ありがとう。いえいえ、あなたのお祖父さんはすばらしい。あなたのアントンも、その息子も、お友だち?ええ、ええ、すばらしいラベルですね、え?あなたの村の絵ですか、いやすばらしい。教会、牛3頭、このいかしたにわとりまで?ああ、いえ、失礼。ママン、あなたも実にすばらしい。さよなら、ええ、ありがとう。またもどってきますよ。ハンカチは?いやいやそんな、はい、さよおなら。 ワインのお礼に全てあげることにした。細かな品々、こじんまりとしたテーブル、ベット、書棚。かくして僕のもう去ることがきまったアパートメントも三年分のなんやかやをまとめたり、いらないものを処分したりとすんなりと片づいた。あとは箱だけだ。それも、5つ6つしかない。これといって持ってかえらなければというものでもない雑品ばかりであったが、まあ、僕にもささやかな感傷にひたりたいときもあるのだ。それくらい許されてもいいだろう。トマトの箱6つ分の郷愁。シンプルだ。郷愁?やれやれ、僕はなつかしいといっているのだ。こっちの3年間になつかしさを思っているのだ。こっちでだらだら暮らしたこの空間の日々を思いかえしたりなどしているのだ。ママン、いっぱいいすぎるぐらいのママン。さよおなら。街角で僕がくるまでまっていてくれるヤッピー男、これからもいかした人生を。バスの運ちゃん、うまく郷に帰られていたらいいね。居酒屋のおっさん、もう店の売り上げ飲んじまうなよ。大家さん、日向ぼっこもほどほどに、なにせ紫外線がさすよう・・・。ばかばかしいほどの太陽。無反省なまでの太陽。 それから、コイズミ。もう僕の部屋は君の小物でゴタゴタとうもれてしまっているんだろうけれども、帰るので、よろしく。そう、金魚がいるんだっけ?魚かっているなら猫は・・・猫・・・猫・・・。くたびれたのでささやかな椅子に腰かけていた僕のスネにすりよってくる。灰と黒のしまの彼女。オナカガスイタノネ。忘れていた、君のことを。ドコカニタベニイキタイワ・・・。君はこっちからあっちへ行く気はないよな、そう、コイズミが君をあっちにつれていくことを許してくれるかが問題か。君はあっちをどう思う?コイズミ?髪をばっさり切っていてめがねをとったらわりと普通の女だよ。君はがっかりするかもね。きいているか?やれやれ、これだからこっちの猫は・・・。 Θ タベルナにふらりと出かける。店先ではエプロンの似合う男たちが眉間にしわをよせてサッカークジのいきさつを話しこんでいる。街の角やらに昼は商店をやっている陽気なおばさんたちにはなしを聞いたり、今日はアンティパスタは魚かななんて角を曲がってきつすぎるくらいきつい坂をのぼって、すると、まあ、たまに、時代性とは無縁に奇抜な格好のヤッピーがはなしかけてくる。 『あのよう、あちらのすっげー赤いすっげー屋根のショップのよう、あれよう、なあ、いかすよな、スダレっての?!チュゴクのようトノさんだな、アチョーッ、な、な、あんたチュゴクだろ?きっとイカスぜ。あの、その、スダレ』 あの例の品か、モノはいい。ただこちらの愛国心のあらわれの赤と白、緑で色がつけられる。なんにでも。そして用途が違う。マキスだ。しかたない。なんといってもここは彼らの国で彼らの感性でつくられた国なのだ。のりを巻く道具を国の旗の色で塗りたがるのもわかる。そして、メイドインインド。うん、ダメだ。まさかこの国にきてインドのものを買いつけて・・・ 『あのよう、それその、チュゴクのよう、スダレ、イカスよなあ、な、な、チュゴクなつかしい?おれもよう、すっげーナツカシイぜ、そのアレヨ、ママンのソース、いいよな?な、な、な、郷はようこの街から五キロハナレタ丘の村なんだけどよう、そこの神父のワインがまたすっげー・・・』 うん、君のママンはすばらしい。君の村の神父も。そしてきみはどっか異国のいわゆるチュゴクのスダレをきみのごきげんなアパートのカベにぺとぺと貼っつけておきなさい。うん、きみのそのオレンジのシャツもイカスよ、じゃあ。 お腹いっぱいになったところでまた街中にでる。スズキの塩焼きはめくらめっぽうにうまかった。前菜の鴨のスフレも捨てがたい。口の中にはこちらのハーブの香りでいっぱいだった。
Θ
とまあこんなぐらいで、2、3サンプルの小品を手荷物にいれてもってかえる。収穫はあった。なかなか天性の、天然の、そしてすばらしく野放しな日ざしのもとのこの国のセンスというものは、あちらの国の地味でしょうゆくさく雨の多い国では感嘆するしかないものをつくらせる。ヤカンもヤカンに見えないもんな。え?これイスじゃないんですか?すわっちゃだめ?あ、そう。うん。このキッチンタイマーも赤と白と緑で。すばらしい。もちろんあちらで売りさばけないこともある。個性的な、印象深い、意表をついた・・・最初の1週間の外交で人脈はできたから、まあ次もいけるだろう。しっかしあれがイスじゃないなんてなあ。外交。店先でチュゴクといわれるたびにアチョーと応えることがその大げさな言葉にあてはまるのならば。 2度目も1週間足らず、3度、4度これはきっちり3週間。おかげでちょっと日のかげった頃合に何度か浜辺でくつろげた。そろそろバカンスかなというくらいの期間になるとホテル代もバカにならないと経理のコイズミにいわれた。きみが月に一度美容院にいくのよりずっと高くつく。ということで、そう、この部屋を一月おきぐらいにまあ、あっちとこっちをいってもどってとするようになる。アパートは古くて前時代的にいかつい石壁だが、借り賃もあっちに比べらた家主にききかえすくらい安い。『250000デスケレドネ』なんってったって、僕が一月に飲むクソ果実酒や炭酸水の合計より安い。猫を飼おうかと思ったくらいだ。でも無理だ。こっちの猫はいまだに何を考えているかわからないのもある。また、一月おきにしかこれなかったということも(まあ、こっちのほうが飼われるはずの猫にとっては問題だ)ある。半年あっちにいてそのあと後半分またこっちに戻ってきてもまだ安くあがるらしい。『あなたのホテル代のほうが前回の栓抜きの仕入れ値よりかかるのよ、だからマージンが15%で純利益が・・・』 Θ ということで会社に対して負い目がないという点で私はこの案に賛成した。うん。領収を切らずに好きに飲み食いできるのは、この食に関して豊満な国では特に、すばらしい半年間だった。魚、メン、トマト、肉、トマト、ニョッキ、メン、トマト、ピッツァ、メン、トマト・・・。 いつかしらあっちにいってもあっちの会社のヒトは『おかえり』といわなくなった。反対にこっちの商店のおばさんやバスの運ちゃんが肩をたたいて僕の帰宅(?)を喜んでくれた。あっちではニノミヤだとかシロヤマだとかがパソコンのモニターを無表情に見ていた顔をそのままこちらにむけてまたもどす。自分で熱いお茶を煎れて渋くて苦い味覚とゆらぐ湯気、1ヶ月ぶりに使う僕のコップ(知らないあいだに欠けていた)をもつ両手にその熱さを感じて、あっちがこっちになったのをしんみりと感じたのもやはりなんかヘンだ。まあ、少なからずこっちでは、晩飯を食いにはいった居酒屋のシェフであったり(メンのびる!)小物屋の店主だったり(客、いるよ、客)の少なくとも人間のそれであって、僕も自然と『タダイマ』の発音だけは比較的うまくなった。 うん。今思えばもとから上司たちの計画のひとつだったのかもしれない。両の手のひらが湯呑みで温まるまで思いを馳せていると、ニシザワ主任が長いタバコを一口すい消そうとしても灰皿に押しつけてそれをさらに指で押さえ、なかなか消えないでいるまま、椅子をこちらにかえしていった。 『支社創りたいんだわ。よろしく』 Θ 3年ははやかった。うまかったタベルナのシェフも腰を痛めてさとにかえったのでひどい味になり、たまにまけてくれた市営バス(!)の運ちゃんもバカンスにいったっきりかえってこない。なじみの商店がつぶれてそのあとにまた商店がはいりその商店とも馴染みになってまたつぶれた。ひどいもんだ。イギリス風インド雑貨なんて。なにかにつけて油っぽい料理にもなれてまた飽きた。どこへいってもにんにくかクレソンか油かトマトが入っている。もしくはそのどちらもが。ということであっち的には順調に、僕的にはやるせなくアパートにも住みなれてあきて引っ越そうかと思っていたのが3月前。 『アッチノ課長が呼んデタヨ』 帰った。なつかしいといえばそうだが、3年も、2年と8ヶ月もこっちで暮らしていたから、あっちにいくと、なにがなんだかもう。社屋の隣の更地が港からの大規模な倉庫の一つとして買われ、建てられ、ちょっと建て増しされたそうだ。 『おかげで陽射しがねえ』 タバコをくゆらせるニシザワ主任。まばゆい目でおだやかな湾をみている。僕は、奥ゆかしくてよどむような空のさえない光がめずらしかったので見あげ思い出しまた感心し、ためいきをついた。時差のせいかな。目がシパシパする。違う。煙か?それともきっと飛行機でフランクシナトラのヴァラードを聴いたせいか。ああ、フランク、興行的詐欺師よ。生命と、精力と、惰性の雄よ。君のあびる陽射しはいったい。 『来月、いやさ来月には、んー遅くても3月以内には帰ってこい』 帰ってこい?そのときの僕はひどく困惑したもしくわ不可解で芒洋とし、また虚無、うつろで不器用な表情だったことだろう。どちらかといえば茫漠とし動揺、焦燥のためか空をみあげる目が空虚をあおぐといった心情でいたいのだが、あっちがこっちになるという事実、状況としての転移、生活といえば帰還、国籍の安寧、つまりはしょうゆくさいさえない空との再会、そして得るところのない確実な安定。そしてその反面、こっちがあっちになる現状の推移。得そして失う。 青い空、青い空、ああ、青い空、フランクシナトラの唄う(これは関係ない!)うん。とにかく、移るのだ。きっと僕はひどい顔をしていたにちがいない。この潮くさくてねとついた風の吹く鉛色の空みたいに。給湯室でコイズミと話をした。生活ぶり、有給がもうないこと、壊れかけの古いTVのはなし、飛行機の中でのこと、あちらでの生活、猫のはなし。綺麗にそろえられた爪をほめると、ほんの少しはにかんだ。実家の犬が子供を産んだとか駅前の焼き鳥屋が改装中だとかそういったこと、雑多なことかもしれないがその最後に気持ちを落ちつけていう。 『うれしい、うれしい?』 そうなることを願っていたのは前からだけれども、あらためて言葉をつむぐと意外に心にしんみりとしたものが残った。約束だ。人生における大事な約束。猫のことはどうにかなるだろう。気持ちの推移がやっと追いついてきたころにはまた飛行場のロビーにいた。 コイズミ、会社からの納入金は君からの手紙だと思ってうけとっているよ。こっちの銀行はなにがなにやらダメなもんはダメだってとおすから、なかば強引に永世中立の軍事国家に月に一度通うようなバカなことをやって受け取るメッセージ。 あちらでの飛行場でひとり濃いいコーヒーを飲んで思い及ぶ。ああ、大事なんだなあと思う。 ニシザワ主任がタバコをもみ消しなかなか消えないでいるその執拗なアメリカタバコの煙の向こうでなぜかいやらしくうれしそうに僕をうかがっていた。僕のひどい顔を。 突然、そのカウンターだけの待合室のスツールで顔を上げる。そうかこれはうれしいことなのか、喜ぶんだ。喜ぶべきなのだ。歓喜していいのだ。すばらしいことなのだ。でないとこの髪までそのにおいがしみついたヘビースモーカーの男が、こうやって、こんな顔をしている僕をのぞきこむなんてことはなかったのだ。いいんだ、これで。 Θ 猫のはなしをしよう。この露地のかげで出あった。八百屋のまえだ。めずらしく曇り空の冷えこむ夜中だったものだから話しかけた。そこかしらしょうゆくさい空にみえたかもしれないし、損なものをなつかしむ自分がいたせいかもしれない。家につれて帰って缶詰のブイヨンをそのままあたためてたべさせた。それ以来居つくようになった。僕が仕事にいっている昼間に彼女がなにをしているかはしらない。きっとゴロゴロして安物のワインを僕の3倍くらいのんでいたのだろう。ろくにはなしはしなかった。彼女ときたら(猫のことだ)訛りがひどくってよくわからんし、考えかたも常識的にはとてもいえないくらい破滅的なことを平気でいう。ある晩あのであった街角での夜のことをたずねてみた。 『おなかはスイテイタのよ。でもつらクハナカッタ。イブクロノコトナンテ忘れテイタノヨ。ユメタクヌレタオヨウフクだけが気ニナッテたんだから。シミニナッチャウワ。シミニナッてしまったワ。サムクナンてなかったの、だからヌレテいることだけガイヤナンデモナカッタノネ。ヨクワカラナイワ。ソウ、タブん、ソンナコトドウデモヨクナッチャッテタノネ』 毛なみをととのえながら本当に「ソンナコトハドウデモイイ」というふうにタバコのケムリをふきだしていた。いつまでたっても現実的物質をとらえない目は、窓の外をじっとみていて、底の深い青をたたえていた。 その彼女を(猫のことだったら!)部屋に残してこの部屋を去るということも僕にとっては気のかかる問題であったが、彼女にしては「ドウデモイイコト」であったのだろう。 「カエレテヨカッタ、ネ」と 一言、ツメをみがいているときのついでにぼそりと、また空を見あげながらつぶやいただけだった。 よかったんだろうか、本当によかったのか。よかったのか、本当に。 よかったんだろう。よかった。よかったんだろう。 よかったんだろうか。本当によかったのか。よかったのか、本当に。 よかった・・・ Θ うれしかったのは出発の朝、空港のロビーまで彼女が見送りに来たことだった。朝もやでガラスの向こうの行儀のよい象のような飛行機がならんでこちらに頭を向けている。のがかすんでみえる。まばらにヒトがいる。俯いてデイリータイムズを読んでいたり、けだるそうにベンチにもたれて書類をまわし読みしているインド人や十分綺麗なのにねめるように細かなごみを集めようとしている初老のおばはんが前をとおりすぎ、もしくは、何をそんなにといったぐらいに大きな手荷物を引きずったビジネスマンが腕時計を見ながら足早にとおりすぎた。大丈夫、時間はたっぷりある。時間通りにこの飛行機が飛ぶにしても(その可能性はまあまあ小さい)そう、カップにはいったジェラードをたべるくらいの余裕はある、ジェラード?まあ、彼女ときたらいつのまにやら、カフェスタンドにいってカップに入ったレモン味のジェラードを買ってきてプラスチックのスプーンですくってはくわえて、と繰り返している。これじゃあまるでジェラードを食べるついでに僕についてきたみたいじゃないか。いや、多分そうなのだろう。彼女はきっと今日の朝、飛行場の屋台でジェラードを食べようと心に決めていっしょにTAXIに乗ってきたんだろう。こちらにすすめてくることなどせず、ひとりその口どけを楽しんでいるようだ。そりゃ僕だって自分で買いにいってもいいものだけど、いいんだ。朝も早いし外は思いのほか冷えこんでいるようだから。それにしても一口、ダメ?あ、そう。ふーん。 場内のアナウンスが飛行機に乗り込むようにアナウンスされた。途中クシャミが聞こえた。ベンチから立ち上がって露のしたたっているガラスに近づいてじっと見る。これからこちらがあちらに移ることに深く思いおよぶ。彼女は隣にやってきてもう空になったのだろう、プラスチックの容器を持って、空をみあげ、つられてみるとめずらしく暗い雲でおおわれている。まあそのうち晴れるだろうし、僕は今からあちらに戻るからこちらの天気なんてどうでもよい。彼女は僕の手荷物を手にとり、そう、きっと搭乗口にまでついてきてくれるのか、僕の横顔を見ている。スプーンを口にくわえたままいった言葉。 「カンパリでも飲んで陽気にやってなサイヨ、ニッポンジン」 そういわれた、その国の名が彼女の口から出てきたとたんこみ上げてくる感情。胸につかえていた寂寥があふれ、目頭が熱くなり、涙がこぼれでた。そんな僕を彼女は胸に引き寄せて嗚咽する背中をさすってくれる。ジェラードの容器が背中に当たっているけれどそんなことはどうでもいい。胸の上で思いがなすままに泣いた。 墜 こっちからあっちへの途過中。こっちがあっちになるつつあり、あっちからこっちへ移行するさなか。君が君でなくなり、彼女がすでにそこにいないことを感じる。まあ、いろんなことにうまくなじめないわけだ。飼っていた猫をあちらに残してきたこともきがかりだが、一人でよろしくやってくれることだろう。また君は君の部屋でエアコンばかりきいた乾ききったなかで、いつまでたってもコーヒーばかり飲みつづけ、あいもかわらず一月に一度髪の毛を整えにいっては 文句をつけたり、一日にやけたりしているのだ。なにもかわらない。そうたとえ僕が3年と2ヶ月こっちにいなくってあっちにいたとしても、なにもかわらない。いつまでたってもグラグラ揺れる航空機の座席に違和感を感じながら、濃ゆい赤い液体(カンパリだ)に氷を2、3入れているだけの飲み物をたびたびなめながら、僕は、質量保存の法則について考えていた。重さのことだ。量のことだ。 こっちに揺りもどされつつある僕のあちらに残っているはずのいくらかの質量。その左手にささげもたれたカンパリの、融け水になりつつある分量。移行している。移動している。変没している。反応している。あんまりじっとその赤いもののはいった冷たいグラスを焦点のあわない目でながめていたものだから、機内の案内係がやってきて僕の顔をのぞきこむ。空間的移動、グラスの向こうに見える見知らぬ女のゆがんだ顔。大ガラな女だった。本当に大ガラなんだ。体全体がしごく大ざっぱに大まかに作られていて、繊細さのかけらもない。あまりにも見事なその大ガラさ加減に僕はグラスを取り落としそうになるぐらいだった。その女はなにやらひどくなまった母国語でうにょうにょとしゃべって去ってしまった。アクセントを強調する大げさなしゃべりかたに憶測で応対して、適宜に応える。どっと疲れた。変な汗がでたんだ。なんだか不意に陵辱された気分だった。念のためにシャツのボタンを上まできっちりはめてみた。異大陸上空での陵辱。逃れようのない言葉の姦通。うん。うん。うん。いや。グラッツェ。 コイズミ。君は僕の質量をおぼえているかい?なんだか例の赤いものを飲みすぎたようだ。 空気がめぐっている。僕が一息はくごとに、密閉されたスチール製の箱の中をうずまくんだ。 うずまいているんだよ、ぐるぐるって。残った毒々しい色の液体(もうのみものですらないんだ!!)をぐっとあおっていまだ揺れる鉄の床を確かめ、意外とすんなりとたてる。便所にいくんだ。隣人の体臭のきついアメリカ女の腰をあげてもらい、脇に出る。あんまりたよりない足場であることを再び認めたので、いちいちだれかれのイスの背もたれにつかまりながら目ざす。ドアが見える。あれだ。・・・三人も並んでやがる。たちの悪い嫌がらせかなんかだ。今にもはちきれそうなあやうい膀胱をかかえた僕は、安っぽいポリタンクになったつもりで腹の中で機体の揺れに呼応する質の悪い酒の波の立つ瀬を感じていた。クプリトクプリトプリ、クプリトクリトクリ----。 一人でてきた。フリルのついたハンカチーフをくわえたまま出てきた大ガラな男。殺し屋みたいな目だった。なんだかこの機内にいる様々な異国人たちはみんな大ざっぱさ加減でいくらか微妙に特出している。みんなどこかしらいびつなのだ。まともなやつなんていない。なんというかなにもかもが大陸的なのだ。叫び声さえも。その頭をかかえる動作でさえも。そしてそんなやつら特有のデリカシーに欠けた言葉づかいと、なまりの強さで神の御名を・・・失礼?無骨な顔の女が話しかけてきた。さっきのこれまた大ざっぱな機内案内の女だ。なんだ?なにをいって・・・戻る?ああ戻るんだ。国へ。いや、便所?便所は待っているんだ。いや、だから便所をしている何れかの人物の所用が終わるのを待っているんだ。なに?すいませんもっとゆっくりと・・・え?戻れ?戻るのか?どこへ?いやさっききたばかり?座席に?いや座席はあちらですよ、さっきも見たでしょう!うるさい?いや失礼。はい、わかりました。戻ります。そうですよね。危険ですからね・・・あの・・・便所あいたら教えていただけませんか、すぐ、率直に、いや瞬間的に、いや、うん、うまくいえないんですけど。はみだしそうなんです・・・そうそれ、モレそうなんです。そもそもカンパリが------
『カンパリでも飲ンで陽気にヤッテなサイよニッポンジン』
------ コイズミ
------ うずまいています
------ 空気が
------ 空が
------ 空間が
------ 奇妙にねじれてラセンの
------ 空が
------ そう
------ なつかしい
------ 澱んだ空でぶ厚く積もった雲が
------ うずまいています
------ コイズミ。
------
質量保存は守られる。一物質が一点から移行し、また二点に分量されたとしても同体積内の質量は変化しない。つまり・・・こっちからあっちであろうと、あっちからこっちであろうと、はたまた、空の、空から、僕が、地面に・・・。 コイズミ、僕はうれしかったのだと思う、帰れて。
Θ
眠れない夜はたまにとおる車の音もきになる。一時間に一台二台何十分かおきに確実に、湿った道路を一日一日とすりへらし、黒いアスファルトは喘息の呼吸のような音を立てる。目は完全にさえた。深夜からたてつづけに濃ゆいコーヒーを飲んだからだ。ただ、コーヒーはコーヒーだ。理由があったわけでもないし必要な理由もここにはない。 自分の何メートルか下をとおりすぎる車におもいを馳せる。どこへ行こうというのか、どちらかに帰るのか、わからない。部屋を閉め切ってエアコンに頼っているせいで部屋のなかは年中かわいていてほこりっぽい。蛍光灯を宵すぎに、夜半に、つけると、電子の光でその細かなほこりが浮かびあがる。もちろんそれまでもほこりは浮かんでいたのだろうが、そうやって目にしてはじめて、大げさだが不快でおぞましくなる。その場の空気を吸うのもいやになる。ところで、太陽というものは見えているはずのないものを見たくないとおもえば見えなくするし、よくみたいと思うそれを見ようとすればよろしく可視することができる、非常に偉大でさすがに宇宙の創造物といった感じ。おなじ理由でカーテンも閉めっぱなしにするのだが、それは向かいの雑居ビルに通うヒトに知られるからで、直射日光の恩恵は通勤の際の朝日くらいだ。 自分の何メートルか下を通りすぎる車というものは彼女の住む5階だか6階だかのはるか下である。鉄筋コンクリートは強い。つまりマンションという形の優しさに包まれているのだ。 神経が過敏になっている。なぜだろうか?仕事はうまくいっていた。普段は詰めこまれる列車にも地下鉄では座れて15分前にはついた。彼女はそのまま制服に着替えて前から気になっていたソデのインクのあとを流しで洗い落としてトイレの手を乾かす赤外線の温風で乾かしてもまだ時間が余っていた。それからお茶を人数分入れて、1杯多かったのだがそれは自分で飲んで。一息ついたら朝礼だった。訓示で彼が帰ってくることが正式にみんなに伝えられて、それでも大事なことを承るような感じで、みんながビックリする顔をちらりとみた。昼前には主任から住所録の件で小言をいわれたがそれ以上のことはいわれなかったし、結果、一コしたの男の子のミスだとわかってあとから謝られたぐらいだ。 「ここんとこいそがしくてさぁ」 昼ごはんもいつもより遠くの定食屋にいって味噌カツ弁当を頼んだら、おまけ、といってウィンナーを余分に出してもらった。 午後からは営業についてまわって、ほんとは彼女の仕事じゃないのだけれども、カーステレオを大きく鳴らしてしっている歌があるとハミングまじりにうたった。出先につくたびに音量をさげて、相手方の経理と仕事の話やら美味しいカツサンドの店をきいたりして、営業の用がすむと相手方の部長なり課長に、形ばかりの、という言葉で、彼の仕入れてきたキッチンタイマーを5、6個渡して楚々とまた車に戻った。一通りまわってもずいぶん時間が空いていたので、 「のめましたっけ?コーヒー」 営業の男の子は最近彼女とうまくいっていなくって、結婚をするにもタイミングがわからないから、指輪を買いにいったらすねちゃってどうしようもなくなったので、百貨店の食堂でご飯を食べたら機嫌がよくなったのでよくわからないなどとしゃべっていた。彼女は、レモンティのレモン抜きで飲んで、うなずいて座っているだけだったけれども。上の空で話をききながら彼の買いつけた赤と緑と白のいかしたキッチンタイマーを想像して、その想像の中でねじを回してみた。いったいどんな音がするんだろう?それにしてもなんて派手なんだ?まあ、ヒトにはヒトの国には国の価値基準があるからあちらでは赤と白と緑で色がつけられていないと逆にいかしていないという評価になるのかもしれない。しかし、暑中の挨拶代わりとはいっても、キッチンタイマーを渡す業者もなかなかないだろう。だって売れ残ったんだもの。こちらではビビットがマイノリティでありわびさびがいかしていると評価されるのだ。まあ取引先は最初はビックリしていたけれど、女の子達が集まってキャーキャーいいはじめると、言葉すくなにありがとうという言葉が返ってきた。自分が買い付けしてきたものみたいに感じられてうれしかった。 「いっすよ?いろいろ悩みきいてもらったし」 会社に戻ると、暑い中ありがとうといって汗をふきながら主任が待っていた。あまったキッチンタイマーもそれほど数があったわけじゃないけれど、みんなに配った。冷凍庫のアイスでも食べなさいと課長。こんな一日が順調というのだろう。 お風呂に入ってビールを飲みながらついていたエアメールを何通か(だって、今回のと前回のと前々回のがいっしょに届くんだもの!)あけて読み、彼の癖のない真面目な文字と、今日の夕方のキッチンタイマーを交互に見ていると電話が鳴った。 受話器をとった。 そのあとたてつづけに航空会社(ひどいイタリアなまりの)からと報道(ぶしつけな体育会系)。あと、混線していたが父から、男の後輩、ハゲの上司、トモコ、ユキチャン、また報道。電話線切った。しばらくすると雨が降り始め、眼下をすぎる車のタイヤの音が耳にこびりついてきた。 そうして彼女は大きめのカップにコーヒーをいれ飲みはじめた。 〈了〉