言語の螺旋

言語の螺旋
陰陽五行でいうところの水の流れがいいところ

2010年8月29日日曜日

Musikboxすごく恥ずかしいこと#4

 食卓にすわって独りでお茶を飲んでいるお午過ぎだった。手の平の中でさっきの指環をもてあそびながら口の中の痛みは痺れにかわり小松菜のパスタも沁みることがなかった。食事は娘の部屋のドアの前に置いておいた。食べてくれることを祈りながらドアを一度だけノックした。返事もかえってこない。きっと浴室の流水口に流されてしまったのは指環ではなく彼女の言葉だったのかもしらない。オリーブオイルと醤油と胡椒で作られたシンプルなパスタは自然乾燥で硬く干からびることがないよう天に命運をまかせたのだった。お茶は、ぬるかった。ぬるく作ったのだ。とくべつ上級な玉露を使っていたということもあるが、肌寒さも和らいだし雨もようやくやんだようだったから人肌恋しい気持ちになったということもある。なんといっても娘が口を利いてくれないのだ。顔も見せてくれないのだ。パスタにたいして胡椒がきつかっただのアルデンテがよかっただのお気に入りのフォークじゃあないだの。
 男は背もたれに背伸びしながらよしなしごとを考えていた。一度シャワーを浴びてもうさっぱりしているのに心の奥では靄がかかって明確ではない希望を希求していた。どうしたら娘と再び過去のような関係になるのか。もちろん、男は幾年も経験を経てきていたし自身も揺るがないようになってきていた。過去を過去として研鑽し万事の物事が幸福であろうと悲惨に巻き込まれようとその中でベストを尽くすくらいの人格はある。ただ気になるのは朝の事件から手つかずなままの明日の原稿の事。この石壁の居宅を離れなければいけないくらい困窮することがないよう、最低限の仕事はこなさなくってはいけないこと。物書きも商業ベースにのれば1メディアなのだからそれは避けようもない。皿洗いもしなくっちゃあいけないし、雨がやんだらゴミも出さなくってはいけない。いずれにせよ生き様は等価交換なのだ。
 今度はコーヒーをたてる。そろそろ仕事に移らなくってはいけない。天岩戸がひらくのを相撲をとって待っているわけにもいかない。カフェインはいわゆる男にとってスウィッチなのだ。現世と浮世、破壊と創造、コミットとディスコミュニケイション、動物園と甲殻類、武装地帯と非武装地帯、男と娘の間に流れるバラッド。泡が沈みきるまでミルを覗き込んでいた。挽かれた後の豆の残骸が散在していて向こうの世界の物語を奏でてくれている気がした。大きなマグカップで砂糖を多めに入れてかき混ぜないで飲むのが男は好きだった。贅沢な時間の経過と身につまされる悲惨との対峙からの逃避。うまく淹れられた。よかったら娘に一杯どうかと思うがそのときではないと思い直し樫の木のイスに腰掛ける。待ちくたびれた狩人のように森の中での濃密な時間が過ぎる。半分ほど飲んだところで席をたち洗物を片付けはじめる。そうだ、ケーキがあるんだったと思い出しこれこそ一人で食べるのほど侘しいものはないと考え娘に声をかけることにする。
 勇気がいる。パスタこそ食べてもらえないのならばケーキどころではない。お祝いのつもりで昨日買っておいた16号の大き目のケーキだ。場違いにもほどがある。無言のままそれを食べるだなんて。短いろうそくもさめざめとした今朝の雨にうたれないまでも力なく燃え尽きるだろう。男が娘を引き止めた理由がそのワンホールのケーキためだけではないことは確かだがぬるくなりつつあるマグカップの中のコーヒーを飲みながら廊下に出て、二階へと上がる階段に足をかける。なんと声をかけていいのか、綴りが違う外国語を読むときのように頭の仲でこねくりかえしまたは、シンプルに、いっそのこと端的に、心は通じ合っている夫婦のようにかと色々思考する。上段までついた。パスタ皿は空になっていた。よかった。感想は聞けないまでも一本残さず食べてくれている。男はパスタを茹でることとナイフで鉛筆を削ること、ロシア語のヒアリングと(もっともそれは娘に教えてもらったおかげだが)はしることを目的とした車の運転とちょっとした日本語の長文だけなのだけれども。
 さて、一言目は
 「コーヒー淹れたよ」
 無言。
 「ケーキ買っておいたんだ」
 無言。
 「ぶどうのリング見つけたよ」
 無言。
 「お誕生日おめでとう」
 気配。
 廊下の窓からの光が燦と降りおちはじめ、どうやら彼女の心の琴線に触れる一言があったようでとりあえず胸をなでおろす。陽光は雨季の合間独特の今しかないといった脳天気さできっと娘の部屋にも入りはじめた頃だろうからその影響もあるんだろう。
 「足の傷みせてよ」
 無言。
 「消毒しなくっちゃあいけないよ」
 ドアがあいた。
 不機嫌な装いの紫のワンピースを着た娘がそこに立っていた。
 「たいしたことない・・・」
 お盆のパスタ皿を持ち上げて男は言葉を続ける。
 「今朝はゴメン」
 無言で階段を下りる親娘。
 「晴れたよ」
 と男。
 「知ってる、発音が悪い」
 と娘。
 ここからは日本語だ。昨日の街で出会った新聞記者の事、ケーキを買うときに地元の娘に笑われてしまったこと。住所を聞かれて針葉樹林帯の中で番地はないと伝えたら驚かれたこと。さっき淹れたコーヒーはまだ冷めていないということ。そして今一度今朝の事件に対しての謝罪。
 「いいのよ、学校なんて行っても行かなくってもいいんだもの」と娘。わかっている。今必要なのは償いではなく心をシャワーの湯のように解きほぐすための誠意だ。男も自然真剣な口調になって窓から見える浮かんだ雲を見ながら仕事のことなど後にうっちゃっておいて彼女の声に呼応する。懺悔を必要としない神も世の中には八百万いる。裏切ってはならないのは世界で一番大切な彼女に対する姿勢だ。食卓についた。この大きな樫の木のテーブルでは男女二人が向かいあってすわってもまだ余りある。娘は置いてあるかごの中のオレンジを手にとりむくこともなくもてあそびながらじっとみている。視線はまだ不自然に男を避けていた。コーヒーを淹れた。娘も砂糖を多めにいれてかき混ぜないのがいつもだ。「だってね」と娘。「わかってたのよ」男はカップを差し出しながら頷いた。「なんといっても自分の誕生日なんだから」娘はオレンジを置いてコーヒーを一口飲む。「おいしい」ケーキはまだ出さない。男はこう提案した。
 「ワインあけて飲もうか」
 頷く娘。
 地下にはいってお気に入りのワインのボトルを取り埃をぬぐって地上に出る。陽光に透かしてみせて澱がたまっていないか確認する。大丈夫だった。食卓に戻ると娘はコーヒーを飲み終えてカップを洗っていた。ボトルを確認のために差し出すとラベルを見てにっこりと微笑んだ。六時間ぶりくらいの娘の笑顔だった。自分が導いてしまった今朝の不機嫌から時が経ち零れ落ちるような彼女の笑顔は心のそこから求めていたものだった。ひっそりとゆっくりと硬くなってしまったコルクの頭にコルク抜きの先を確実に入れもろく崩れやすくなったそれを砕かないように慎重に押し上げて栓を抜く。その間に娘は席を立ち水屋の棚からでっぷりとしたワイングラスを取り出し乾いたナフキンでつやがでるまで磨いて光に透かせた。彼女はロシア語もそうだがグラスを磨くのも非常に上手なのだ。男が過去にちょっと教えただけなのに。基本を教えたら後は自分で考えてとうてい真似ができないほど上達するのが早いのだ。応用能力。そんな彼女の生誕吉日の日。
 そう、学校に行かせたくなかったのは彼女と贅沢な一日を二人きりで過ごしたかったことからだった。男の我儘は致命的な関係性の分離をよんでしまったがそれはもう過去のこと。ワンホールのケーキを二人で分けあいながら上等なワインを昼間から飲む。なんて贅沢なんだ。そしてもう一つ・・・
 今でこそ歓喜の声を上げながら彼女はケーキを食みつつ時にワインを傾け男と深く心理に分け入るような話をしている。彼女は若いから、少なくとも男よりは若いから、小さな幸福が何倍にも増幅されてフォークの一刺しや喉を通る赤いぶどう酒の香りにも感嘆符がついている。本当だったら昨夜からデキャンターしておいたほうがよかったのだけれどもまさか朝からあんな揉め事になるとも思ってもいなかったから結果よかったと思う。これだけまで時間が経ってしまっていたとしたら逆に香りがとんでしまっていたはずだ。果物の主にブルーベリーやラズベリーが挟んであるケーキも半分ほど残して後はワインを飲んで言葉すくなに夕方前になった。今書いている小説のことや娘の気になる学校での出来事やこの週末にはどこに遠出に出ようかとか熊をやり過ごすために森の中で銃をかまえて一晩たってしまったときのことなどささやかな雑事だった。特別な料理も作らず静まりかえった針葉樹林を窓中から見て夕日に染まる空に無言になる。空腹は感じない。ワインも三本目になり、男はあるときを待っていた。
 カーゴの軽いエンジン音が近づいてきて家の前で停まった。男は少し肌寒さを感じたのでストーブを熾していたところだった。呼び鈴に娘が振り返り玄関まで出ていった。注文の品を届けに来たという男は上品なカーキ色の上着をはおり靴も先がとがった街の流行のものだった。男が職人なのは手を見たらわかった。
分厚く爪が短く切りそろえられ一部だけに硬そうなタコができていた。サインをしてずっしりとした箱型の40cm四方のそれを受け取ってためらい、なにか特別なものなのか聞こうとしたら職人はもう背を見せていた。再びカーゴのエンジン音が鳴り今度は遠ざかっていく。
 玄関でボウとしてたたずむ娘のそばに男がやってきた。最低限の包みにつつまれた包装を取り払うと娘の目が煌めいた。小屋の形の箱の中に装飾された月や星、森の木々、天を仰ぐ熊やイノシシ、猿たち。男は箱の後ろをまさぐって螺子を探しそれを目で確認するとゼンマイを巻いた。
 奏でられる最初は早くそして段々とゆっくりと鳴るその音楽は娘の好きなクラッシック音楽だった。
 音楽にあわせ箱のなかでは月が揺れ星が回り動物達が夜空の下で踊っていた。
 食卓に戻りオルゴールを食卓に乗せて幾度も幾度も彼女は見つめていた。
 これが望んでいたことなのだ。これが男が見たかった娘の姿なのだ。こうなるために何週間も前から街にいったりきたりして予定を立てていたのだった。
 ワインを飲んですっかり気持ちのよくなった男と彼女は手をつないで箱の中の星空を見ながら今までのこと、これからのことなど、深い夜が来るまで話し合ったのだった。
《了》  

Musikboxすごく恥ずかしいこと#3

 それからやはり鈍くじんわりと感覚をおもいだしていく。白くてぬるい湯気にとりまかれ、鳥肌をたてている。手をのばせば指先で蛇口をひねることができる位置まで踏み込んでおり、そうすることにより、再び熱い湯にあたることを欲していた。望んでいた。ふと忘れていた感覚。鼻梁が目を覚ます。湯気にまざってふわりと浮かぶ甘い香り。泥臭い自分の手の平ははるか下にあり、すぐ指先に石鹸の香。それをきっかけに朝の小さな口論とそれに付随する難解なまでの流血事件をはじめから順を追って見直す。
 鼻からゆっくりと深く湯気を吸いはきだす。いきおいよく吹き出はじめた湯を頭からかぶり続け、その一コマ一コマの互いの行為を再生し、一々に自らの否を認め、娘へ対する申しわけなさをつのらせられる。せっかく熱い湯を浴びるという当面の目的を達したというのに少しもさっぱりとしない。余計に滅入ってしまった。悪いのは自分なのだ。正しいのは彼女なのだ。学校は朝から行くものだしたとえその朝に雨が降っていようが、星がみえていようが行くものなのだ。たぶん。ましてや今朝は、霧だった。いつもより濃く深いだけの霧。別に霧が濃ゆいからといって森の奥へと吸いこまれるわけでもないし、突然あらわれた熊に正面からぶつかるわけでもないのだ。そんなことを心配していたのではない、もちろん。
 ごしごしと足の裏をもみながらあごをつたって落ちる湯のたどりつくタイルの目地をじっと見る。もちろん、雨降りそうだからひきとめたのでもない。動機を考えだしたら、また頭がぼやけてきて、自分に自信がなくなってきた。別に学校に行くことを咎めていたわけじゃあない。そうだよな。つまり、つまり、自分は一度は、車で送ろうという提案も提出しそれは娘によりことわられたのだが、やはりその事実には揺るぎようがない。いや違う。いまさら偽善を語ってもしょうがない。なにせ相手は自分の娘なのだし。無意識にしろ、彼女の自転車に手をかけていたということは、やはり行ってほしくないという男の欲望の顕著な表示であろうし、その行為にうすらと気付いていたことをやめなかった自分もやはり、行くことを咎めていたのだ。それは認めることにした男。湯のしたたり続ける髪をかきあげ、上向いた面に強い流れをうける。皮膜の薄いまぶたに断続してうちつける一つ一つの粒が、眼には赤く映る。今度は正にのぼせ始めたようで、頭の奥が熱をもちはじめたのを感じ、浜に寄せられた波が帰ってゆくように体がふわりとよろめく。波間に浮かぶプランクトンか藻のようだ。その藻の足の裏にいまだにひやりとするタイルの感覚の他に小石くらいのものを踏みつけたするどい痛みが走った。眼を見ひらいて足の裏を見ると小さな傷とともに、薄い血がにじみはじめ何をふんだのだろう。目をやると銀色の環がある。娘のリングだ。ぬれてつややかに光る指環だ。小さなぶどうに碧い石が一粒づつうめこまれており延びるつるがねじれながら環になっている。男の足の裏を傷つけたのは、その葉っぱの部分だ。ぶどうの葉っぱは、広くてとがっているもの。その葉の精妙さが気にいって男が娘に買ってやったのだ。いつか。
 視線は男の脚へとはしり、ひざ、つまさきから濡れたタイルの床へ。そして隅にある流出口へとたどりつく。彼の家のそれは、ひどく目が大きなものだ。長年乾くことのなかったそれなのに赤く錆びることもなく今もとどこおりなく湯を落としつづけている。つまんだその環と見くらべてみてもその深い穴に落ちなかったのが幸運だ。一度湯の波に乗ってしまえば、アトは還らずの海へ。深い大針葉樹林帯の挟間へ。

熱風と友達


広場に出ると小さな玉虫が地べたを這っていた

そのままでは暑さにまいってしまうと思われたから

手のひらにのぼらせて公園の陰にいき枯れかけの紫陽花の葉の上に落としてやった

大事なものは樹液やしとど降る夕立なのかもしれないけれども

今できる最善のことをやった

雲の流れが思った以上にはやくって

陽炎立ち昇るほどでわなかったし大丈夫だと思って

建物のかげでタバコを吸っているとめまいがして耳鳴りもおきた

思ったよりも体には限界がきていたようだった

でも

タバコはきちんと根元まで吸った

残り2本しかないのが心もとないが

月が天宙に浮かぶ頃には

もっと

暑熱は和らぐだろうから

家に帰ったら筆を洗って

お風呂に入って

大好きな本を読みながら眠りにつこう

睡眠

その甘美な

濃密な空虚の時間の経過は

ヒトにとっては

僥倖なのだから・・・

おおきにt-sirts追加注文始めました


意外と?

いや

想像以上な売れ行きだったので

追加注文

受付始めました

¥2500+別途送料

数量限られておりますゆへ

どうか

どうか

宜しく御願いします

2010年8月27日金曜日

短歌「第4の男」


息を殺す
 冷たくなりつつある
 君の瞳
 手を握ればぬくくなった

コーヒーを淹れた
 ふーふーしてから飲んだ
 もちろんブラックで
 苦いのが苦手な意識が遠のいた

山芋短冊
 の海苔
 死んだ海草の足跡か
 光合成を放棄している

見違えるほどの笑顔
 眠気が覚めるからはたと気づくよ
 ろうそくを吹き消してから

寝袋が
 湿気ていたから眠りが浅かった
 今日も森の中で過ごしたからだ

2010年8月26日木曜日

連続小説「うたうたえ」




とか何とかィイながらいつもの雑文ですが

レンタルでCDわ借りない

うぐいす嬢に恋わしない

ほのかな温もりがほしいだけだ

えっと

何をィイたいかというと

おおきにt完売でした

アトわ

kidsサイズの灘

やっさ

kingサイズの涼しい

ご注文受け付けております


¥1300+送料¥400デス

宜しく御願いします

2010年8月24日火曜日

残り少なです!!!!!




おおきにt-shirts
¥2500
オリジナルt-sirts
¥1300
お急ぎになることをお勧めします

2010年8月20日金曜日

オリジナルt-sirts作れます




青山蟲士です

貴方の好きな文字を

t-sirtsに如何でしょうか

¥1500からで郵便局のexboxで送料¥400別です

毛筆で書かせていただきます

ご連絡わwhati@wind.sannet.ne.jpまで

魂を込めた一筆をどうぞ買ってください

2010年8月17日火曜日

短歌「ふつつかもの」

独りで笑った
 君は泣いていた
 手をふってサヨウナラといった

ヒグラシと
 暑熱の残るアスファルト
 影がのびてもそれが焼きつく

今日限りと
 傷ましいほどの日記の言葉
 夕方なのに街灯はつかない

気持ちのいい打ち水
 空に放ると
 霧になって消えた

見損ねた
 映画の感想を聞いていると
 なんだかみたような気持ちになる

2010年8月13日金曜日

Musikboxすごく恥ずかしいこと#2

 浴室からきこえていた湯の音がやんだ。娘が終わったのだ。その間、男は、しめったズボンで腰掛けるわけにもいかず、間をうめるために何か口にしようかとも思ったが、口の中のにがい血の香りを思い出し、やめる。ほんとに忘れていたのだ。気付くと、食卓にあったオレンジをむいていた。そして気付いたあとも手持無沙汰からその白い筋を一本一本はがしていた。
 食卓の上の娘のカバンをじっとみている。濡れてしまったカバン。僕のくつ下ぐらい。なあ、君も自分の内身を全部放り出して、熱いシャワーをさっと浴びたくなるときはあるのかな。いや、くだらないことをきいてしまった。君には自分の内身を全部放り出すようなひどい罪は犯せないものな。たとえ自分が雨に濡れようが雷に打たれようとも。たとえ娘の誕生日であろうとも。いや、いいんだ。聞きながしてくれたまえ。間がもたないからってつまらない個人的なことまで話してしまった。いや本当に。ミカンは?いらない。そうだよね、君も幾らか傷ついているのだものね。ねえ、知ってるかな。今朝の深い霧は雨に変わったよ。やみそうもないね。いやほんとに。
 皮をはがされたオレンジは皮とともに屑入れに放りこまれた。また罪を一つ。近いうちに懺悔をしに行かなくちゃいけないな。教会へ。
 さて、娘は浴室を出ると、そのまま二階へとあがってしまう。男は、傷の手当てをしなきゃあといおうと思ったが、今ひとつ度胸が出なくて、その声を飲み込む。再びさびた血の味を感じる。あがった後でお茶を飲もうと思って、鍋に水をいれ火をかける。そして上着、ズボンをぬぎながら浴室へと続く廊下へともどる。脱ぎちらかされた彼女の服の間をぬうように娘の小さな足あとが、水たまりとなって階上へと続いていた。それはそうだ。家に入って直に浴室へとはいったのなら着がえはもちろんからだをふくものもないはずだ。風邪はひかないように気をつけろといいたいところだった。

 あたえられた好機とその消滅

 ドアをあけると外より濃ゆい蒸気にまかれていた。熱い空気に息がつまる。鼻控に感じられる甘い石鹸の香り。裸足の足の裏に感じるぬるい水気。タイル目の床は水びたしだ。足ふきマットもすでに自分のはいていたくつ下をほうふつとさせるほど重い。目の前、厚い蒸気を吹きのけると床に小さな赤い点があるのがわかった。娘の血だろう。多くの水気にのってゆっくりと広がりつつある、淡い赤い血。思い出して壁面にしこまれた鏡をみやる。全体がくもっていてその役目ははたされていない。手のひらで無造作に湿気をぬぐい、ガラスの面をじっとみる。映った自分の顔をもっと細部まで見ようと、顔を近づけ、傷口である唇を指先でもっておしてひろげる。たいしたことない。口の端から歯ぐきまでさけていたら娘にも強く迫れることができるのだろうが、自分に与えられたにぶい痛みのように、その傷さえないものであった。このくらいの傷なら、鉛筆をけずっている手が滑ったぐらいでもできる。そう思った。で、男はアゴの先端に固まっていた血糊をツメ先で削りおとして、やはりそれ以上の傷でもないことを確認し、鏡をさらにぬぐう。
 浴槽のタイルを踏む。
 心はまるで許されない聖地の土を犯したか知ってはいけない神の背徳を盗み見てしまったかのよう。
 男が気付くと自分の鼓動ばかりでなく管を流れる音までもが耳に残る。湯に浸かってもいないのにのぼせてしまったのか。思考がぼんやりと明瞭さを欠きはじめ、全ての指の先からじんと痺れ一ミリも動かすことができない。
 同じく痺れたまぶたに祈りこめて力をこめる。どうやらそれは、それ自身の機能を憶えていたとみえてゆるやかに、というよりは、鈍くきしみたてながらひらかれた。森の奥の古城の鉄扉は開かれた。門兵のひく耳障りな鎖の音をたてながら。

2010年8月12日木曜日

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