言語の螺旋

言語の螺旋
陰陽五行でいうところの水の流れがいいところ

2010年8月29日日曜日

Musikboxすごく恥ずかしいこと#3

 それからやはり鈍くじんわりと感覚をおもいだしていく。白くてぬるい湯気にとりまかれ、鳥肌をたてている。手をのばせば指先で蛇口をひねることができる位置まで踏み込んでおり、そうすることにより、再び熱い湯にあたることを欲していた。望んでいた。ふと忘れていた感覚。鼻梁が目を覚ます。湯気にまざってふわりと浮かぶ甘い香り。泥臭い自分の手の平ははるか下にあり、すぐ指先に石鹸の香。それをきっかけに朝の小さな口論とそれに付随する難解なまでの流血事件をはじめから順を追って見直す。
 鼻からゆっくりと深く湯気を吸いはきだす。いきおいよく吹き出はじめた湯を頭からかぶり続け、その一コマ一コマの互いの行為を再生し、一々に自らの否を認め、娘へ対する申しわけなさをつのらせられる。せっかく熱い湯を浴びるという当面の目的を達したというのに少しもさっぱりとしない。余計に滅入ってしまった。悪いのは自分なのだ。正しいのは彼女なのだ。学校は朝から行くものだしたとえその朝に雨が降っていようが、星がみえていようが行くものなのだ。たぶん。ましてや今朝は、霧だった。いつもより濃く深いだけの霧。別に霧が濃ゆいからといって森の奥へと吸いこまれるわけでもないし、突然あらわれた熊に正面からぶつかるわけでもないのだ。そんなことを心配していたのではない、もちろん。
 ごしごしと足の裏をもみながらあごをつたって落ちる湯のたどりつくタイルの目地をじっと見る。もちろん、雨降りそうだからひきとめたのでもない。動機を考えだしたら、また頭がぼやけてきて、自分に自信がなくなってきた。別に学校に行くことを咎めていたわけじゃあない。そうだよな。つまり、つまり、自分は一度は、車で送ろうという提案も提出しそれは娘によりことわられたのだが、やはりその事実には揺るぎようがない。いや違う。いまさら偽善を語ってもしょうがない。なにせ相手は自分の娘なのだし。無意識にしろ、彼女の自転車に手をかけていたということは、やはり行ってほしくないという男の欲望の顕著な表示であろうし、その行為にうすらと気付いていたことをやめなかった自分もやはり、行くことを咎めていたのだ。それは認めることにした男。湯のしたたり続ける髪をかきあげ、上向いた面に強い流れをうける。皮膜の薄いまぶたに断続してうちつける一つ一つの粒が、眼には赤く映る。今度は正にのぼせ始めたようで、頭の奥が熱をもちはじめたのを感じ、浜に寄せられた波が帰ってゆくように体がふわりとよろめく。波間に浮かぶプランクトンか藻のようだ。その藻の足の裏にいまだにひやりとするタイルの感覚の他に小石くらいのものを踏みつけたするどい痛みが走った。眼を見ひらいて足の裏を見ると小さな傷とともに、薄い血がにじみはじめ何をふんだのだろう。目をやると銀色の環がある。娘のリングだ。ぬれてつややかに光る指環だ。小さなぶどうに碧い石が一粒づつうめこまれており延びるつるがねじれながら環になっている。男の足の裏を傷つけたのは、その葉っぱの部分だ。ぶどうの葉っぱは、広くてとがっているもの。その葉の精妙さが気にいって男が娘に買ってやったのだ。いつか。
 視線は男の脚へとはしり、ひざ、つまさきから濡れたタイルの床へ。そして隅にある流出口へとたどりつく。彼の家のそれは、ひどく目が大きなものだ。長年乾くことのなかったそれなのに赤く錆びることもなく今もとどこおりなく湯を落としつづけている。つまんだその環と見くらべてみてもその深い穴に落ちなかったのが幸運だ。一度湯の波に乗ってしまえば、アトは還らずの海へ。深い大針葉樹林帯の挟間へ。

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