言語の螺旋

言語の螺旋
陰陽五行でいうところの水の流れがいいところ

2010年8月13日金曜日

Musikboxすごく恥ずかしいこと#2

 浴室からきこえていた湯の音がやんだ。娘が終わったのだ。その間、男は、しめったズボンで腰掛けるわけにもいかず、間をうめるために何か口にしようかとも思ったが、口の中のにがい血の香りを思い出し、やめる。ほんとに忘れていたのだ。気付くと、食卓にあったオレンジをむいていた。そして気付いたあとも手持無沙汰からその白い筋を一本一本はがしていた。
 食卓の上の娘のカバンをじっとみている。濡れてしまったカバン。僕のくつ下ぐらい。なあ、君も自分の内身を全部放り出して、熱いシャワーをさっと浴びたくなるときはあるのかな。いや、くだらないことをきいてしまった。君には自分の内身を全部放り出すようなひどい罪は犯せないものな。たとえ自分が雨に濡れようが雷に打たれようとも。たとえ娘の誕生日であろうとも。いや、いいんだ。聞きながしてくれたまえ。間がもたないからってつまらない個人的なことまで話してしまった。いや本当に。ミカンは?いらない。そうだよね、君も幾らか傷ついているのだものね。ねえ、知ってるかな。今朝の深い霧は雨に変わったよ。やみそうもないね。いやほんとに。
 皮をはがされたオレンジは皮とともに屑入れに放りこまれた。また罪を一つ。近いうちに懺悔をしに行かなくちゃいけないな。教会へ。
 さて、娘は浴室を出ると、そのまま二階へとあがってしまう。男は、傷の手当てをしなきゃあといおうと思ったが、今ひとつ度胸が出なくて、その声を飲み込む。再びさびた血の味を感じる。あがった後でお茶を飲もうと思って、鍋に水をいれ火をかける。そして上着、ズボンをぬぎながら浴室へと続く廊下へともどる。脱ぎちらかされた彼女の服の間をぬうように娘の小さな足あとが、水たまりとなって階上へと続いていた。それはそうだ。家に入って直に浴室へとはいったのなら着がえはもちろんからだをふくものもないはずだ。風邪はひかないように気をつけろといいたいところだった。

 あたえられた好機とその消滅

 ドアをあけると外より濃ゆい蒸気にまかれていた。熱い空気に息がつまる。鼻控に感じられる甘い石鹸の香り。裸足の足の裏に感じるぬるい水気。タイル目の床は水びたしだ。足ふきマットもすでに自分のはいていたくつ下をほうふつとさせるほど重い。目の前、厚い蒸気を吹きのけると床に小さな赤い点があるのがわかった。娘の血だろう。多くの水気にのってゆっくりと広がりつつある、淡い赤い血。思い出して壁面にしこまれた鏡をみやる。全体がくもっていてその役目ははたされていない。手のひらで無造作に湿気をぬぐい、ガラスの面をじっとみる。映った自分の顔をもっと細部まで見ようと、顔を近づけ、傷口である唇を指先でもっておしてひろげる。たいしたことない。口の端から歯ぐきまでさけていたら娘にも強く迫れることができるのだろうが、自分に与えられたにぶい痛みのように、その傷さえないものであった。このくらいの傷なら、鉛筆をけずっている手が滑ったぐらいでもできる。そう思った。で、男はアゴの先端に固まっていた血糊をツメ先で削りおとして、やはりそれ以上の傷でもないことを確認し、鏡をさらにぬぐう。
 浴槽のタイルを踏む。
 心はまるで許されない聖地の土を犯したか知ってはいけない神の背徳を盗み見てしまったかのよう。
 男が気付くと自分の鼓動ばかりでなく管を流れる音までもが耳に残る。湯に浸かってもいないのにのぼせてしまったのか。思考がぼんやりと明瞭さを欠きはじめ、全ての指の先からじんと痺れ一ミリも動かすことができない。
 同じく痺れたまぶたに祈りこめて力をこめる。どうやらそれは、それ自身の機能を憶えていたとみえてゆるやかに、というよりは、鈍くきしみたてながらひらかれた。森の奥の古城の鉄扉は開かれた。門兵のひく耳障りな鎖の音をたてながら。

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